横浜〜福岡1100km!移住デザイナーの日々つれづれ。

横浜から福岡へ移住しました。日々思ったことを淡々と綴ります。

捨ててしまえばいいと思うこと。

 

 

結局は自分の課題だということ。

 

 

今日ウチの奥さんと仕事の事で話していて、どうやら自分の仕事の事で行き詰まっている事があるようで、雑談をしていたら自然と仕事の話になった。
「ね〜聞いてくれる?これって普通なのかどうかわからないんだけど。」
「ん〜、なになに?」

「会社で年上の部下の女性がね、企画書を提出してくれたんだけどさ、、、」

とあるメーカーの総合職として働くウチの奥さんは人のマネージメントをする立場にあるので、時折、マネージメントしている課の社員の提出レポートや企画書のチェックをする業務もあるようだ。
「提出された企画書を読むと、何を伝えたいか全くわからないし、ここをもう少し膨らませたいいんじゃないですか?ってアドバイスしたら、プー!って膨れてちゃっていきなり機嫌が悪く成ってさ、そんなのありえなくない!?」と、自分に聞いてきた。
話を聞いている限り、ウチの奥さんはおおよそ間違った事を言っているとは思わないが、ただ、相談された自分から観たら、その企画書を提出した相手の人の背景を考えたらその人の価値観からすれば自分が正しいと思ったからそれを提出したという事であって、提出されたものが何を持って正しいか正しくないかなんてわからない、という事だと思う。

加えて、その企画書を提出した年上の部下の女性は、「私は自分の職種の等級以上の事はやる義務はない」と言っているそうで、客観的に見ても、ちょっと厄介な社員なんだろうなとは思うが、会社という組織の言い分とすれば、こういった部下も自分のマネージメント下として統率を取って結果を出していかないと、あなたのマネージメント不足は否めません。としか言って来ないだろう事は想像するに容易い。

 

 

f:id:juns0714:20151125215648j:plain結局は自分が「どう捉えたか」ということ。

 

すべての物事は自分の思い通りにいく事の方が稀であり、結局は自分の捉え方によって結果は良くも悪くもなりえる、ということ。それは言い換えれば、

 

“自分自身がどう捉えるかという、自分自身に対する課題”

 

なんじゃないかと思う。

他人がある物事をどう捉えるかなんて自分にはコントロールできないわけで、だったら自分がその時その時で自分の判断基準で、これが今の時点では正しい。だから単に「自分はこう捉えた。」としか言えないだけの事なんじゃないかと思う。

 

他人がその時の自分自身の判断についてとやかくいう筋合いはないし、そもそも他人は他人の人生を生きている訳で、同じように自分は自分自身の人生を生きている訳である。少なくともその瞬間瞬間に於いてはそうであるはずだろう。

だからその企画書をそれが「正しい」と思い提出した、その人「自身」を否定するべきではなくて、その企業や組織に於いての基準によって正しい「企画書」を提出できなかった彼女は正しくなかったという事でしかない。

要は、その「人格」そのものと、組織に於ける「一社員」は切り分けて捉える必要があると考える必要があると、思わずにはいられない。

資本主義ベースの現代社会で、これだけ多くの人が鬱病を患い、最悪の結果を自分で選択せざるを得ない人も少なくない社会で、本当の幸せを人間同士で享受するためには、物事をシンプルに捉えづらいこの複雑な現代社会に於いての「観点の問題」から、なんとか脱却しなければならないんじゃないかと思う。


f:id:juns0714:20151125222631j:plain結局は自分自身の「捉え方」によって物事の美しさや醜さはいくらでも変化していく。


念のため最後に付け加えておくが、奥さんに相談された事に対して、もちろん共感の念を持って接したし、相談してきた奥さんの気持ちに寄り添った上で、幾つかの解決策を提示した事実だけは付け加えておきたい。。。